9/26/2015

応援のこと、人の心のこと、ガッチャマンから思いついた。(ネタバレ注意) #cerezo #photo #diary

久しぶりにアニメを、自分から観ようと思った、ガッチャマンクラウズというシリーズ物だ。ガッチャマンと名乗ってはいるが、もともとのガッチャマンの要素は薄く、登場人物も今風だ(公務員しているヤツまでいる)。ただし、悪を倒し、世のため人のために密かに活動している点は前作と類似している。


俺が面白いなと感じたのは、第一期、第二期ともに根本の敵が「人間の心」にあるというところ。それぞれベルク・カッツェ(なぜか長身痩躯の変わり者になってる)とゲルサドラというハッキリとした敵はいる。ただ、それらを物理的に排除しても、ガッチャマンが求めている平和は訪れない。


例えばベルク・カッツェは心の弱い人を嗅ぎ分け、自分の力の一部を与える。すると人間は日頃鬱屈していた思いを爆発させて騒乱が起きる。人が力を与えられることを拒んだり、力をコントロールすれば問題にならない。だが人間はそれを使いたくてしょうがない、暴走したくてしょうがない。

結局、力を与えられた人間は暴走し、東京が壊滅状態になってしまう。ベルク・カッツェは直接的には何の関与もしていない、人間は人間の心によって危機に瀕していく。


ゲルサドラも紆余曲折の末日本の総理大臣となる。そして人の心を取り込み、彼らが望む政治を推し進める。国会議員制度の廃止、全ての法案の議決は国民がスマホで直接に、瞬時に行う、総理の給与は生活費のみ、など一見聞こえがいい制度を次々と導入していく。

しかしこれにも限界があり、人は法案を吟味することに飽きたり疲れたりし始める。ゲルサドラはあくまで彼らのために「善意」で、法案の「イエス」「ノー」の他に「サドラにお任せ」ボタンを追加する。

結果として人は考えること、自分なりの意見を言うことをやめてしまい、即物的な「サル」へと退行してしまう。


この台本を書いた人は、およそネット掲示板、SNSというものをよく調べたのだと思う。ベルク・カッツェは大混乱が起こった時「この騒動がいつまで続くのか」と問いかけられ「満足するまでにきまってますやーん!」とせせら笑う。

失礼なようだけど、現実もおよそそうだ。人を叩きたくて仕方がない、問題があるやつを打ちのめしたい、でもそういう人はおよそ「倒した後の未来」なんて描いてはいない。倒したい、鼻を明かしたいだけだからそのように行動する。

ガッチャマンクラウズの世界では、究極まで行き着いた果てに、人の心の明るい部分を利用して世界の崩壊を押しとどめる。ベルク・カッツェは殺されず、主人公と同体になる。それがベストの解決なのだと思う。ゲルサドラ編は最終話が残っていて、どう風呂敷がしまわれるかというところ。

現実でも、ネットでポコポコ話しているだけだと、世界は動かないし変わらない。誰かが憎いとかおかしいとか言い出すと整理がつかなくなる。誰かが「ここまで!」と線引しなければ誰かが押しつぶされた未来しか出来ない。残念ながらそうだ。


さてさて、やっと書きたいことが書ける。

俺みたいな、ルール破りまくりでいろんなもの食べまくりの、誰から見たって悪という人間はもう規格外として(笑)、どこの応援グループがいいとか悪いとか、あれは無い、これをやれ、的な議論は、部外者から見ると異質だ。チームが一丸にならないと勝てないのに、スタンドがバラバラに動いててどうなるんだろう?


理想はあくまで理想だから、そこにたどり着くのは難しいとして、最低限みんなが共有している「セレッソを勝たせたい」という思いをもう一度思い起こして欲しい。セブンイレブンシートからでも応援の声はよく聞こえた、選手に届いていないわけがない。だからこそひとつになり、より鋭角になり、ちゃんと選手を後押しできる応援が聞きたい。

応援グループには知り合いがたくさんいる、全員が強い意志を持って応援している、だからこそぶつかり合うのは理解が出来る。そこから先、異質なものを受け入れる、いろんなものを取り込む、そういう感覚を少しでも持ってもらえるとうれしいかな。応援という力を悪用するでも、それぞれの目上に従うだけの存在になるのでもなく、それぞれが考え機能するゴール裏は、きっと強いよ。

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