1/30/2011

「ドーハ」の意味が変わる時。



ああ、もう18年経つんだなとしみじみ。オレはまだ高校生で、Jリーグがまだよちよち歩きのころで、サッカーに関する何もかもが新鮮だった。(それより以前からずっと日本サッカーを支えてきたライターさんとかもいたけれど、今「オレずっとサッカー見てきたから!」とか言ってるほとんどの人はこのころからサッカー見だした人だから、今ビギナーの人も安心してね)

この93年にも、日本中のにわかサッカーファンたちが、毎日ドーハに熱い視線を送り続けていたことがあったんだ。6カ国の代表が総当りで戦って、トップ2チームが94年のアメリカワールドカップに行けるという、とんでもなくデカイイベントだった。詳しい経緯なんかはWikipediaに載っているけれど、日本は、本当にあと一歩のところでワールドカップにとどかなかった。その挫折感というか、精神的なダメージがどれほどだったかはオレの筆致では表現できない。

この瞬間から「ドーハ」という地名は口にするのも嫌になるトラウマとセットになった。「ドーハの時って家で何してた?」と言えば「93年の10月28日、あなたは何歳で、どこで何してたの?」という意味になった。


昨日の一戦で「ドーハ」の意味が変わってくれたらいい、そう願ってる。「ドーハの時何してた?」と聞かれても「昔の?今年の?」って言えるようになれれば。


試合自体も、この18年で成長した「日本のサッカー」を見せられたような、そんな試合だった。一昔前にオーストラリアと当たってもボコボコにヤラれていたと思う。フィジカル勝負、高さ勝負でゴリ押しされた時にどう対処するのか修正する前に1、2点とられていてもおかしくなかった。

日本チームは、これをたった一度の選手交代で跳ね返した。後半11分、藤本淳吾を下げて岩政大樹を入れ、最終ライン中央を吉田、岩政で揃えたのだ。

今野は左サイドにまわり、長友は2列目左サイドに上がって、岡崎を右サイドに戻す。キューウェル、ケーヒルの高さに対抗し、破綻しかけていた左サイドの守備を繕い、左サイドで汲々としていた岡崎を代表での定位置で活性化させる。様々なパッチを一手だけで済ませたところがザッケローニの凄みだ。そのリクエストにキチンと応えられた日本代表の選手達もまた素晴らしい。

決勝ゴールにしても左サイドの長友が1対1で勝ち、それをケアしようと中の選手が動いたところで、李に時間とスペースを作れた。決めた李のボレーももちろんいいシュートだけれど、その1手前、2手前の崩しでオーストラリアを振り回せた。今の代表だからできた大きな仕事だった。




最後のクロスを上げた選手が香川であったなら、個人的にも満点のアジアカップであったけれど、そこまでは言わない。この苦しい中でよく頑張ってくれたことに、感謝。

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