6/17/2005

Great grand father.

 祖父が亡くなった事を知った元帝国陸軍の戦友から手紙が届いた。読み終えた私は、ただただ涙するしかなかった。 




前略 ご実父様のご逝去に心からお悔み申し上げます。
想へば61年前、昭和19年6月下旬召集令状により(現)大阪府
高槻市、工兵第四連隊に200名余り集合、その日の夜行
列車にて愛知県豊橋、渥美半島、大清水飛行場設定
練習隊に転属、8月下旬飛行場設定なかばで、スマトラ(北部)
行きの命により、トロツコ、線路、天圧車(ローラ一台)障害物除去用(キヤタピラ付)
ケンイン車2台、スコツプ、つるはし、モツコ、測量機等を広島市字品軍港
にて輸送船に積こみ門司に向う、門司港外にて約35隻の船団を
くみ、台湾、高雄軍港に入港、ここでそれぞれに別れ、15席の船団で
シンガポール(当時昭南島)に向う、台湾とフイリツピンの海峡、バシー海峡
で夕方一隻潜水艦の魚雷にて轟沈、フイリツピンとボルネオの海峡(バラバツク海峡)で
真夜中に魚雷攻撃にて10隻の損害こうむり四隻がやつとのことで
シンガポール港に到着、シンガポール、カラン飛行場で約1ヶ月
警備にあたり、後マレー半島クアラルンプール近くの港より、マラツカ
海峡をわたり、北部スマトラ、メダンに駐留、敗戦後約半年間、小銃と弾5発
を持つて村落を転々と移動し、21年2月初旬ベラワンの港にて
武装解除(イギリス軍にて)ドレイ船同様にシンガポールに向う、マレー半島
バトバハにて戦犯の取調べを受け、2日間程住民の罵声をあびながら行軍し、ある駅から、イギリス軍
監視のもとシンガポール向う、直ぐにイギリス軍の指揮のもとで当初住民の罵声をあびながら苦しい作業に
従事、昭和22年8月下旬頃復員船に乗船9月下旬、佐世保
針尾島に上陸、数日間宿舎ですごし南風崎(ハヤザキ)駅から列車に乗車、
各々の出身地に帰宅せり、
備考、引揚事ム局より1人300円支給有り、但し、ヤミ値で列車発車までに
まきすし1本50円で売りに来た、
飛行場滑走路1本つくるのに日本では2ヶ月近くかかつた、その当時、アメリカでは
ブルドーザと鉄板で滑走路1本7日間ないし、10日間位で完成
するとのこと、日本軍の監視下でインドネシア労働者アミーバ赤痢で多く
たおれたとのこと、日本軍にはくすりは皆無の状態である、

以上の事から想馬燈の如く想いうかべます、
皆々様には御身ご自愛の程、
乱筆の程おゆるしを、
敬具
○○ ○○ 様
6月14日 △△ △△
追伸 シンガポールで作業中、ご尊父様の通訳としての活躍のすがたを想いうか
べています、

 祖父はこんな辛い話など、29年間一度も話そうとはしなかった。いつも飄々として、笑ってた。
 私の祖父が敗戦国の軍隊と罵声を浴び、劣悪な環境に身を置いても、耐えて、耐えて、生きぬこうとしてくれたから、今の私が有る。命をかけて祖母達を守ってくれたから、今の日本が有る。でも、そんな事をただの一度も口にすることは無かった。平和な世界に不釣合いな昔話だと、心の中にしまっていたのかも知れない。
 私の祖父は、やはり偉大な人間だった。軍人としてでも、商社マンとしてでもなく、人間として偉大だった。手紙に書かれた事が、そして61年間のブランクが有ってなお、その手紙が送られてきたことが、それを証明している。
 

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