12/25/2004

小野伸二 悲運の果てに。

 「小野が左足首を傷め、W杯アジア最終予選の初戦、北朝鮮戦への出場が絶望となった」このニュースを聞いたとき、多くのサッカーファンが「ああ、またか」と感じたことでしょう。

 ジーコ言うところの「黄金の中盤」にあって、小野の「ツキの無さ」はとりわけ目につきます。

 98年フランスW杯、ジャマイカ戦に登場した彼のプレーは、3戦全敗に終わった日本代表の、数少ない収穫でした。新時代の到来を予感したサポーターも多かったでしょう。

 しかし、その後の選手生活は、苦難との戦いの連続でもありました。


「もし小野にもう少し運があれば、日本のサッカーは変わっていたかも知れない」



 そんな想いを持つ人もいるでしょう。


 W杯の前年、97年の12月に浦和レッズと契約。プロ選手としてのスタートを切ります。それからサポーター達を魅了するようになるまで、それほど時間はかかりませんでした。98年の新人王ほど選考の余地が無いタイトルもなかったでしょう。

 しかし99年、最初の試練。浦和レッズの新監督に就任した原博美は、同年に入団した大学ナンバーワンFW、盛田をポスト役にロングフィードを多用するサッカーを展開。

小野がボールに触れる機会は激減し、それに付随するように、チームは崩壊を始めます。

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 同年にナイジェリアで開かれたワールドユース選手権では、クラブチームでの鬱憤をはらすかの様な大活躍。高原、中村、稲本、本山、遠藤。後にフル代表として活躍する事になる「黄金世代」の中にあっても、その才能は傑出していました。そして日本ユースは初の決勝進出を果します。

 しかしそのピッチに、小野の姿はありませんでした。累積警告による出場停止。スペインの前になすすべなく失点を重ねるチームを、彼はどんな想いで見ていたのでしょう。

 さらなる不幸が、小野を襲います。シドニーオリンピックアジア地区一次予選最終戦。フィリピン代表選手の劣悪なバックチャージにより足を負傷。苦痛に顔を歪ませ、ピッチをのたうつ小野の姿に、楽勝ムードだった国立競技場が凍りつきます。オーストラリアの地を踏む事無く、彼のオリンピックは終わったのです。

 追い討ちは続きます。レッズが最終戦、あと僅かのところで残留に失敗。J2降格が決定したのです。

 しかし、彼はレッズを見捨てる事も、自身の運命を悲観する事もありませんでした。

 「J2でレベルの低いサッカーを続けるのはもったいない」そんな雑音を振り払い、怪我あけの体をおして一年でのJ1復帰に尽力。5年前のJ2は、今よりもさらに劣悪な環境でしたが、不平不満を漏らす事はありませんでした。

 その後の活躍はご存知の通り。オランダ、エールディビジでは名門フェイエノールトの中心としてプレー。代表においても母国開催となった韓日W杯ベルギー戦にて鈴木隆行の「つま先シュート」を演出するなど、無くてはならない存在になりました。ジーコジャパンのオープニングゴールを決めたのも彼。アテネオリンピックでは不本意な結果に終わりましたが、小野個人のポテンシャルの高さに疑いの余地は無いでしょう。

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「もし小野にもう少し運があれば、日本のサッカーは変わっていたかも知れない」



 そういう見方もあるでしょう。しかし、こう捉える事は出来ないでしょうか。


「小野が苦難を乗り越えてきたからこそ、今の日本サッカーがある」



 確かにここ来ての怪我は代表にとって大きなダメージ、初戦は厳しい闘いになるでしょう。しかし、小野はきっとピッチに帰ってくるはずです。苦難を乗り越えて、以前よりさらに大きくなって。



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